原稿今昔2016年11月05日 10:25

以前と違って、この頃は携帯でメモや原稿を書く、というよりも打ち込んでおくことが多くなった。
ドラえもんの「どこでもドア」ではないが、喫茶店でも電車の待ち時間でも打ち込める。
打ち込んだものをメールでパソコンに送っておくだけのこと。
場所も時間も選ばないで原稿が書ける。
実に便利な世の中になったものである。
昔は手直しも大変だった。消しては書いて付け加えたり、さらには後ろの数行を前に持ってきたりとなると、まるまる再度書かなくてはならなかった。挙句の果てにやっぱり前の方が良かったとなるとまたまた大変である。
今はその文章をコピーして貼り付ければよいだけ。とは言いながらも手書きの原稿が懐かしい気もするのだが。

参考までに9月のとりとめもないメモをそのまま披露しますと、
(何のことか分らないところもあるかも)

盛岡市;2016.9.30;
雫石;
某美術館の奥様との話、移動展示可能、期間と貸し出す作品数によって貸し出し金額が違う。販売もする。ソビエト、ポーランドなど北欧4から5ヶ国。イーゼル多数あり、一室のみ展示替えして後は常設にしている。
喫茶アウルで果物入りチーズケーキとコーヒーを注文、
(アウルはフクロウのこと)
超高速参勤交代リターンズ、シン・ゴジラ、君の名は、天使と悪魔、

天声人語;朝日新聞、1904年1月5日誕生、
深代惇郎、

べっぴんさん;
板野惇子(ばんのあつこ)はファミリアの創業者、父は佐々木八十八でアパレル企業・レナウンの創業者、マンガ大賞、三月のライオン、

弘前市;2016.9.26
藤田記念館、庭園、池、鯉、抹茶、水琴窟、滝、考古館、喫茶店の建物が展示場、ミニ洋館、移築して喫茶店、東奥義塾跡地、成田専蔵珈琲店;寿々炉さんの上生菓子、
弘前の人は新しもの好きでほら吹きとはタクシーの運転手さんの説明、
津軽の殿様はキリスト教の洗礼を受けていた、布教しないという約束で宣教師を鬼何とかという一画に住まわせていた、その後30数名が幕府の政策で処刑された、
市になったのは青森より弘前の方が早かった、弘前藩となり青森県となった。

野辺地;2016.9.24
野辺地にも金鶏城という城があった、野辺地代官所、野辺地が栄えたのは青森より早かった、北前船で栄え芸者さんたちで賑わった、今でも当時の料亭が1件残っている、何年か前までは旅館を営業していた、
常夜灯(北前船で持って行ったものは海産物と?持ってきたものは石など)、台座に野村治三郎の名前が刻まれている、以前は常夜灯は道の真ん中に朽ち果てて邪魔だと言われていたが原燃の人が来てこれは日本でも何基も残っていない貴重なものだと言われ移転修復されて今のように立派なものになっている、
愛宕公園、御前水、エゾザクラ、石段、
花鳥号(明治天皇が全国巡回の際に愛馬の花鳥号が野辺地で死亡したためここに花鳥号の銅像が建っている、これは今愛宕公園となっている、)
野村治三郎.

光原社;2016.9.23
盛岡市材木町.宇山博明の書で宮澤賢治の詩が塀に書かれている、
可否館、珈琲の仕入れは成田専蔵珈琲店(弘前市城東北2丁目、0172ー28ー2088)からと、駒龍は今も営業していて頼めば芸者さんも呼んでくれる、この界隈には昔は何軒かの料亭があったが今はここ一軒のみと、ただ他の地区にはまだ何軒か昔からの料亭が残っていると、駒龍は芸者をしていた女将さんの芸名、まだ健在かどうかは不明、
大釜、小岩井、雫石、御所湖の川村美術館、
上野中将、上野画伯、コッテイジ村、

まあこのメモが原稿につながるかどうかは不明だが、記憶の一助には確実になる。


追記;
先日原稿の依頼を受け、字数一杯に書いて送ったのだが、7行程足りないとのことで、再度書き送った。それで初めて知ったことがある。というのは本や雑誌によってそれぞれ一行の字数が違う。それは当たり前なのだが、切れの良いところで次の行に行くものと、行を変えずに続けて行くものとがあるということ。例えば「天声人語」だと、行を変えずに続ける。変える変わりに三角印を付けて続けていく。だから読む方にすると若干読みにくいかもしれない。行を変える書き方だと字数を調節することがある程度出来るので、書く方は書き易い。だからどうしてもそちらの方、つまり字数を得する書き方になり易い。もうお分かりのことと思うが、前回の依頼は行を変えない書き方の雑誌に行を変える書き方の原稿を送ったために7行の差が生じたという次第であった。何はともあれ、本や雑誌によってそこのところがちょっと違うので注意が必要である。やはり文章にも適材適所があるようだ。